菊池寛実記念 智美術館でSNSユーザー向け「菊池コレクション 現代陶芸のすすめ」展鑑賞イベントに参加してきました。
特別な許可をもらい、写真撮影しています。普段は一部作品を除いて撮影NGですので注意してください。
展示内容
美術館設立者の菊池智は、自身のコレクションによる展覧会「Japanese Ceramics Today(現代日本陶芸展)」を1983年に米国スミソニアン国立自然史博物館で開催する。今回の企画展は、1983年に出品した作品や、70年代~80年代の作品を中心に構成している。
道具としての器としての陶芸作品とともに、オブジェ的な造形作品も現代陶芸には存在する。どちらも作者は用途や機能ではなく立体造形として、自身の表現形として陶芸という素材や技法を用いている。
今回の企画展では、「器」としての用途を捨てていない(?)作品群と、純粋な(?)オブジェとしての作品群と、大きく二つに分けて出品している。
器
まずは器として、もしくは器の用途がまだ残っている作品群。作者が名づけた作品名にも「器」や「瓶」、「皿」などの言葉がある作品だ。
とは言え、花瓶として使うにはかなり使いにくそうなものも多く、造形美を求めて作られたんだなと思える。
これならば花を飾れそうだと思える作品もあれば、どこに花を挿せばいいの?と戸惑ってしまいそうなものもある。
「皿」はまだ(?)その用途に充分使えそう。
ここまで鮮やかな色合いだと、どんな料理を盛ればいいのか迷ってしまうだろう。皿が買ってしまって、料理が映えなさそう。
これらの紋様はどうやって付けたのでしょう。筆で描いた? シールでも貼った? それとも釉薬を流しただけ?
オブジェ
造形美を追求し、もはや「用途」は問わない作品たち。
モノリス? 墓石? 板碑? 黒い食パン?
「黒い花」と題された作品。窪みがあるからかろうじて皿の用途に使えるかも、と思ったが、見ての通りの角度で固定されているので、何を載せてもこぼれ落ちてしまうだろう。
巻物の焼き物。。。学芸員さんも説明していたが、現代陶芸の流行り廃りは、こうなると「陶芸として作る必要があるのか、他の素材の代替品なのか?」との議論が起こり、また伝統的なものに戻っていくという流れになる。しかし、しばらくするとまた伝統から逸脱する動きが出てくる。その度に「陶芸とは何か?」が問われるのだとか。で、答えは出ない。
口さえ開いていれば「瓶」になるのか?
これはもう“用途が違う”作品。と言いつつ、当然ですが実際には履けないでしょう。いや、たとえ足が入ったとしても歩けないでしょう。
Oh! My God!!
感想
改装のためにしばらく休館していた智美術館が再開。その最初の企画展は収蔵品からのチョイスによるもの。改めて「現代陶芸って何?」と問うものになっていました。
「用の美」をどこまで求めるのか、それとも陶芸という技術を使ってどこまで自分の想う形を創り出すのか、はたまたその両方なのか。なるほど今回の企画展のように大きく二つに分類して作品を展示してくれると、その根源的問題(?)に突き当たるというのが良くわかりました。きれいな大皿の作品を眺めていると、ここにどんなご馳走を盛ったら美味しそうになるだろうかと想像してしまうし、半分に割れた化石の卵のような作品を見ていると「これで花をイメージさせるのは難しいんじゃない?」などと作者に異議を唱えたくなり、それぞれに見る楽しみがあるなぁと思わせてくれました。
現代美術というと、訳のわからないものが多く、子供の落書きかアニメのキャラクターと何が違うの?って感じで戸惑うばかり。ところが、陶芸という伝統技法で作られたものは、そのベースとなっている”焼き物”という素材や技法に親しみある分、取っつき易い気がします。もちろん、これは何を表しているの?という作品もあるけど、焼き物としての魅力はちゃんと備えているので安心感のようなものがあるのでしょう。そんな不思議な感覚を今回の企画展を観ながら思いました。
今回の出展品の中で一番のお気に入りになったのは母袋幸子の「印仏」。あの、巻物のような焼き物です。ぱっと見には陶芸品とは思えません。古文書のような風合い。でも、よく見ると可愛げのある仏様がプリントされている。うむ、なぜこれを陶芸の素材、技法で作ったのか。その意図は?なんとも謎多き作品。惹かれました。
美術展情報
- 会期 : 2025/1/18(Sat) – 5/6(Tue)
- 開館時間 : 11:00 – 18:00
- 休館日 : 月曜日 (月曜日が祝日の場合は開館し、翌火曜日が休館日)
- 料金 : 一般1,100円、大学生800円、小・中・高生500円
東京・ミュージアム ぐるっとパス2024 参加館 - 公式サイト : 最新の展覧会|展覧会|菊池寛実記念 智美術館
- 参考書
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